大迷惑




「おかえりなさいませ。ルルーシュ様」

陽が西に傾きかけた頃、ルルーシュは戻ってきた。
それを待ちわびていたジェレミアは膝を着いたいつもの姿勢で主を迎えた。
今朝の失態を詫びなければとの思いはあるものの、頭を下げたジェレミアはその顔を上げることができない。
そのままの姿勢でルルーシュの次の言葉を待っている。
しかしルルーシュはなにも言わず、学生服の襟元を緩めるとそのまま椅子に腰掛けて、机の上の端末をいじりだした。
完全無視の形となったジェレミアは所在無くそのままの姿勢でじっとしている。
ジェレミアにとって、その姿勢を何時間も保つことは苦痛ではなかったが、主君と二人きりの室内の重い空気が居心地の悪さを感じさせた。
静かな室内にキーを打つ音だけが響いていた。
どれくらいの時が経ったのだろうか。窓から差し込む陽光に室内が淡い朱色に染まり始めている。
沈黙に耐え兼ねて、ジェレミアは僅かに顔を上げ、端末の画面を注視するルルーシュの様子を上目遣いに窺った。
夕日色に染まったその姿を瞳に映して、ジェレミアの鼓動が跳ね上がる。
紅い陽光に映し出されたルルーシュの整った顔がとても綺麗だった。
これが自分の主君かと思うと、ジェレミアの鼓動は早鐘のごとく高鳴って、息をつめて食い入るようにその顔を見つめ続けた。
静寂の中に聞こえていたキーの音がぴたりと止んで、高貴な紫色に夕日の朱が重なった神秘的な色合いをした瞳が、ゆっくりとジェレミアに向けられる。
口許に微かな笑みを浮かべ、その瞳がジェレミアを捉えて妖艶に細められた。
「ジェレミア」と、名前を呼ばれて我に返り、ジェレミアは慌てて視線を床に向ける。

「どうした?」
「・・・申し訳ございません」

動揺を隠せないでいるジェレミアの口から、なぜか謝罪の言葉が零れ出た。

「どうして謝るのだ?何か疚しいことでも考えていたのか?」
「・・・いえ、そのようなことは・・・」

ジェレミアはルルーシュの言っているようなことは微塵も考えていなかった。
ただ純粋に主のその顔が綺麗だと思っていただけなのである。
ジェレミアのその気持ちには疚しさなどなにもない。
それなのに、なぜ自分の口から謝罪の言葉が出たのか。自分はなぜ動揺しているのか。
ジェレミアの混乱した頭ではその答えは見出せなかった。
押し黙ったまま俯いているジェレミアに、ルルーシュはニヤリと唇を歪める。

「お前、今朝のことを覚えているか?」

「今朝のこと」と言われて、ジェレミアは自分の失態を思い出す。

「も、申し訳ございません。・・・その、ル、ルルーシュ様がお目覚めになったのも気づかずにうっかりと寝過ごしてしまいまして・・・」
「そのことではない。お前が気持ちよさそうに眠っていたので俺が起こさなかっただけだから、そのことは気にしなくてもいい」
「・・・では?」

ジェレミアは恐々と顔を上げた。
ルルーシュは笑っている。
恐ろしいほど穏やかな笑みを浮かべながらジェレミアを見ていた。

「わ、私がなにか・・・ルルーシュ様に失礼なことをしたのでしょうか・・・?」
「本当に、覚えていないようだな」
「は、・・・申し訳ございません。熟睡していまして・・・。・・・ルルーシュ様に私はなにを・・・?」
「・・・お前に絞め殺されそうになった」

さらりと言ったルルーシュの思いがけない言葉に驚いて、ジェレミアは何かを言おうとして口を開けた。
しかし、開いた唇はヒクヒクと引き攣って上手く言葉を紡ぐことができない。
喉の奥に何かが詰まったように息苦しくて、声すらも出てはこなかった。
見開いたジェレミアの瞳には絶望の色が映し出されている。

「お前は無意識になると力の加減ができなくなるようだな・・・」

普段のジェレミアは意識して自分の力をかなりセーブしている。
そうしなければ普通には生活ができないことを自分でも知っている。
初めのころはそれが上手くできなくて、触ったものを尽く破壊して、自分の身体の変化に大いに戸惑った。
今ではその力にも慣れて、物を壊すことは殆どなくなって、自分の身体の力を完璧にコントロールできているとジェレミアは思っていた。
しかしそれは意識して力を加減している時のことで、無意識状態にある、例えば眠っているときのことなどは考えたこともなかったのである。
まさか自分のもっとも大切な主君の生命を脅かすことになるとは、ジェレミアは思いも及ばなかった。
絶望にがっくりと項垂れて、自分のしでかした凶行に懼れをなしたジェレミアは震えていた。
「以後気をつけるように」と、ルルーシュに言われて、ジェレミアは「はい」と小さく返事をしたものの、自分で自分の力をどうすればいいのかわからない。
わかっているのは、自分の驚異的な力がルルーシュに危害を及ぼす可能性があるということだけだった。
室内の紅はその色の濃さを増して、次第に黒い闇に変りつつある。
項垂れて沈み込んでいるジェレミアとは対照的に、ルルーシュは愉しそうに口端を歪めた。





全てがルルーシュの思惑通りだった。
ジェレミアの驚愕も落胆も絶望的な様子も、ルルーシュの予想の範囲内のことである。
あまりにも単純にことが運びすぎて拍子抜けの感もあったが、ルルーシュの計画は変更されることなく恙なく進行していた。
あの後ジェレミアは一言も声を発することもなく、用意された食事にも殆ど手をつけずに、ルルーシュの顔を見ようともしない。
絶望のどん底に沈みこんでいるジェレミアを見ながら、ルルーシュはそれに優しい言葉をかけるでもなく、普段と変らない態度でジェレミアに接している。
自分でも少し冷酷かなと思ったが、これも計画のうちだ。
変えるつもりは毛頭ない。
ジェレミアに絶望の淵を彷徨うだけ彷徨わせて、その後で優しい言葉で慰めてやれば、その言葉の効果は絶大さを増す。

―――お楽しみはそれからだ。

ベッドの上に身体を横たえて、ルルーシュは時期を見計らっている。
ジェレミアには隣室で休むようにと言ってあった。
と、その耳にガラスが砕ける音が聞こえてきて、ルルーシュは訝しげに身体を起こした。
今この部屋にはルルーシュとジェレミアしかいない。
だからその音の発信源はジェレミアなのだろうとルルーシュは思う。
あまりの絶望に自暴自棄となり、破壊衝動にでも捕らわれたのかと一瞬考えたが、音はそれっきり聞こえてこなかった。
しんと静まり返った静寂に、「まさか自殺でも」と変な不安が過ぎったが、それもないだろうと考え直す。
ルルーシュの描いたシナリオ的にはまだ時期尚早だったが、この辺が潮時なのかもしれない。
ベッドから降りて、ルルーシュは音のした方へと向かった。
隣室へと繋がる扉を開けて薄暗い部屋の中を見渡すと、ジェレミアの姿はそこには見つからなかった。
音はもっと違うところから聞こえていたらしい。
奥に目を向ければ簡易のキッチンから明かりが漏れている。
ならばそこにジェレミアはいるのだろうと、足を運ぶとジェレミアは確かにそこにいた。
入り口で足を止めて立っているルルーシュにまったく気づくことなく、ジェレミアは呆然と自分の手を見つめている。
足元には粉々に砕けた透明なガラスの欠片が散乱していた。
散乱したそれはグラスかなにかの破片なのだろう。
「ジェレミア?」と声をかけると、ようやくルルーシュの存在に気づいて、ジェレミアはゆっくりと顔をこちらに向けた。

「なにをしている?」

問われてもジェレミアは呆然としたままで、返事を返すこともできないでいる。

「グラスを割ってしまったのか?お前らしくもない失態だな」
「・・・も、うしわけ・・・ございません・・・」
「まったく、夜中に騒々しい奴だ。怪我はしていないのか?」
「・・・いえ」

ルルーシュの声に覚束ない言葉をようやく返して、ジェレミアは足元に散らばった欠片に視線を向ける。
「すぐに片付けます」と、のろのろとした動作でそれを拾おうとするジェレミアに歩み寄り、ルルーシュの手がそれを阻んだ。

「そんなことは明日の朝にでも咲世子に頼むからいい」
「・・・はい」
「それより、本当に怪我はないんだろうな?」
「・・・はい。私の手はこれくらいのことでは怪我などしませんから・・・」

視線を合わせないまま、そう言ったジェレミアの声が震えていた。
手首を掴んだまま、その手を引くようにしてルルーシュが歩き出すと、ジェレミアはよろよろとした足取りで大人しくそれに従った。
しかしルルーシュの寝室の前でジェレミアの足はぴたりと止まり、それ以上進むことを躊躇っている。

「どうした?」
「手を・・・」
「手?」
「手を離してはいただけないでしょうか?」
「・・・離したらお前はどうするつもりだ?また逃げ出すのか?」

ジェレミアはなにも返さない。
多分ルルーシュの言ったことは当たっているのだろう。

「昨夜お前が俺に言ったことは単なる戯言だったのか?」
「・・・ルルーシュ・・・さま?」
「・・・愛していると、俺に言ったではないか。それは嘘だったのか?」
「も、申し訳ございません・・・どうか、どうかそのことはお忘れになってください」
「なぜ?」
「・・・私は・・・、私には資格がありません・・・」
「資格?人を好きになるのに資格なんてものが必要なのか?」
「それは・・・ルルーシュ様の仰るとおりなのかもしれません・・・。ですがそれは私が人間だったらの話です」
「お前は人間だろう?身体が生身ではないから人ではないとでも言うのか?」
「・・・はい」
「なぜそう思う?」
「わ、私は・・・主君であらせる貴方を・・・、ルルーシュ様を・・・」

後の言葉を躊躇うジェレミアの言葉尻を取って、「殺してしまうかもしれないから、か?」と、ルルーシュがずばりと言い当てると、ジェレミアは怯えたように「はい」と小さく頷いた。
それをルルーシュは鼻で笑う。

「・・・お前は馬鹿だな。それだけのことで自分が人ではないなどと思うとは、馬鹿さ加減にもほどがある」
「し、しかし!」
「よほど大事に育てられたのか、お前は世間をまったく知らないのだな?・・・まぁ、貴族の嫡男などと言うものはそんなものなんだろうが・・・」

皮肉交じりのルルーシュの声にジェレミアは黙って俯いている。
ルルーシュがなにを言おうとしているのかがまったくわからなかった。

「世の中には人の皮を被った獣もいるということをお前は知らないのか?欲に溺れて自分を見失って、心の貧しい奴がこの世界には掃いて捨てるほど存在する。そんな奴らこそ人とは言えないんじゃないか?皇族や貴族なんてものはその最たるものなんだろうが・・・、昔はどうか知らないが、今のお前は違うだろう?」
「それは・・・」
「今のお前には心があるんだろう?誰かを好きになることができるならそれはお前に心があるということだ。違うか?」

他人を気遣うことができるジェレミアの方が自分なんかよりは余程人間らしいと、ルルーシュは本気で思う。
その人間らしさがルルーシュの悪戯心を堪らなく刺激するのだ。

「・・・ルルーシュ様は、私が怖くないのですか?」
「臣下を恐れる主君がどこにいる」
「で、ですが、私は・・・貴方を殺すかもしれません・・・。それでもルルーシュ様は私を怖いとは思わないのですか?」
「ああ、確かに、殺されるのは怖いな。だが、お前に殺されるつもりはないから安心しろ」

暗殺者の影に怯えながら生きてきたルルーシュは、その恐怖にいつのまにか耐性ができてしまって、その感覚が麻痺している。
だから、そんなことがさらりと言えるのだ。
しかしジェレミアはそんなことは知らない。
ルルーシュの言葉を素直に受け入れることができずに、じっと主の顔を窺うように見つめている。

「・・・なんだ?俺の言葉が信用できないのか?」

頭の固い臣下にルルーシュは苦笑を洩らす。

「今朝お前に絞め殺されそうになったが、今俺はこうして生きているだろう?それでも信じられないか?」

そう言って掴んだジェレミアの手首をぐいと引くと、ジェレミアはルルーシュの予想を遥かに超える力でそれを振り払った。
振り解かれたルルーシュの手にジンとした痛みが伝わる。
これまで、何度かジェレミアに手を振り払われたことはあったが、それほど強く払われたのは初めてだった。
少し驚いてジェレミアの様子を窺うと、ジェレミアは明らかに狼狽している。

「・・・も、申し訳ございません・・・」
「ジェレミア・・・?」
「どうか、私にはもうお近づきにならないでください」

頑な過ぎるその様子には違和感すら感じられれる。
ルルーシュは怯まずにジェレミアの肩を掴んで無理矢理寝室に押し遣ると、逃げられないように後ろ手で鍵を掛けた。
鍵の閉まる無機質な金属音がジェレミアを追い詰めた。
一歩二歩とルルーシュの前から後ずさり、必死の様相で窓辺へとにじり寄る。
それをいち早く察したルルーシュはジェレミアの行く手を塞いだ。
ジェレミアが窓からの逃走を謀るなど一度もなかったことだったが、今のジェレミアにはこれまでに見たことのない異常さが感じられる。
残された唯一の逃走経路を断たれて、ジェレミアは諦めたようにがっくりと床に膝を落とした。
その落胆の様子も普通ではない。

「なにをそんなに怯えるのだ?なにか俺に知られたくないことでもあるのか?」
「・・・て、手が・・・」
「手?」
「・・・手と、腕の、力が・・・上手く、制御・・・でき、ないのです・・・」

涙をいっぱいに浮かべた絶望的な瞳をルルーシュに向けて、ジェレミアの声は嗚咽に変った。
想定範囲の枠を遥かに超えた事実に、ルルーシュは少しうろたえた。
ジェレミアは助けを求めて、縋る瞳で苦しそうにルルーシュを見つめている。
溢れた涙がジェレミアの頬を伝ってぽたぽたと床に零れ落ちるのを呆然と見ながら、ルルーシュは胸を締め付けられるような重苦しい痛みを感じた。
迂闊と言ってしまえばそれまでだが、ルルーシュはジェレミアがこんなにも自分の言葉に脆いとは思ってもいなかったのだ。
責任の所在はすべてルルーシュにある。その自覚はあった。
それにジェレミアがこの状態ではルルーシュが折角考えた計画は無駄になってしまう。
自分の所為とは言え、それは嫌だった。
ラクシャータに丸投げしてしまおうかとも考えたが、技術的な問題でないのだからそれで簡単に治るとは考えられない。
だとしたら、自分がなんとかするしかないのだ。
そしてルルーシュは考える。
精神的な要因が関係していることは明らかだった。
ならば優しくすればジェレミアはその感覚を取り戻すことができるのだろうか。
しかし、そんなに単純なことではないような気もする。
とりあえず、困惑しているジェレミアを落ち着かせることが先決だと考えて、ルルーシュは鬱陶しい涙を拭いてやった。

「ルルーシュさま・・・」
「なんだ?」
「・・・私を、お見捨てには、ならないの・・・ですか?・・・私はもう貴方のお役にたてないかも、知れないのですよ・・・?」

「そんなことを考えていたのか」と、ルルーシュは少し呆れた。
ジェレミアは自分の身体のことよりも、そっちの心配を優先させていたらしい。
だとしたら、先にそれを取り除いてしまえばいいのだと、ルルーシュは優しくジェレミアに微笑む。
そして、

「お前ほどの忠義者の臣下を見捨てたら、罰があたるだろう?」
「ル、ルルーシュ様ぁ・・・」

ルルーシュはジェレミアが喜ぶ、とっておきの言葉をかけてやった。
予想通りそれの効果は絶大で、ジェレミアは今度は嬉し涙をぽろぽろと零した。
この男が涙脆いのは知っていたが、よくもこう簡単に泣けるものだとルルーシュは心の中で苦笑する。
もはやそれは「涙脆い」と言うよりも「泣き虫」と言っても過言ではない。
その涙も優しく丁寧に拭いてジェレミアの手首を取ると、座り込んでいた床から立たせてベッドの傍まで連れて行く。

「感覚が戻るまで、俺がお前の面倒をみてやるから安心しろ」
「・・・で、ですが・・・」
「なにもしないから安心して眠れ。朝はちゃんと起こしてやるから」

躊躇うジェレミアを強引にベッドに押し込んで、その頭を胸元で抱きかかえるようにして横になる。
ジェレミアは抱きつきたい衝動に駆られたが、それをぐっと我慢して、自分の胸のあたりで腕を組み、右手で左手を押さえつけるようにしながら瞼を閉じた。



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